サンパウロからの小話20 コンニャク芋(A 鎌谷)

 気が付けば、庭のいたるところからコンニャク芋が芽をだしている。葉っぱが空中で広がるまでは気が付きにくいが、広がったあとでは嫌でもその存在が目に入る。がそんな所へ植えた記憶がまったくない。芋が好き勝手に飛んでいって、そこに陣取り、自己主張しているようで、それなら「どうぞそこで勝手におおきくなりなさい」といいたくなる。

 4、5年前までは自家用に、と少量植えていた。それが急に、芋は植えると大きくなるどころか前より小さくなったり、消えてなくなったりしてしまう。それが毎年繰返したので気になって、別の栽培者にたずねると、同じことがおきている、という。

 どうやらこの辺が潮時と考え、植えるのを中止した。

 地球温暖化と人は騒ぐけれど、サンパウロの気候は温度が下がり、芋には不向きとなってきたようなきがする。そのくせ自生するようにかってに出てくる芋は、順調に育っている。

 おもえばこの芋には本当にお世話になった。勤め人の常として、いただくサラリーだけでは足りない時がある。十二月はボーナスが出て穴埋めにつかえるが、この芋は六月のボーナスになった。家の周囲に土地があるときはそこで、ないときは知人から土地を借りてこの芋栽培に専念した。

 この芋にはよい点が2、3ある。消毒、殺虫等の手間が殆どいらない。インフレの激しい時期にも値段はちゃんとあがってくれた。

 それに加え、芋から自分でコンニャクを作る人は、案外大勢居られたようだ。

 長いこの芋との付き合い中、共同事業も経験した。種芋をかう資本家、収穫した芋の販売担当の私、植えるのならお任せの三人目、大ざっぱな口約束ていどの取り決めではじめた。売れる芋が少ない二年度までは順調だった。三年目、売れる芋は増え、三年目の芋には小さな種芋が無数につく。この種芋がもう三年もすると売れるので販売金額はうんと増え面白くなってくるのだが、三人目がこんなことをいいだした。

 この種芋は栽培者たる自分の働きによる副産物で、処分する権利は自分にある。それゆえ、自分はこれを種芋として売り、儲けはじぶんだけのもの、だと。

 資本家には「カチン」ときた。

 この種芋は、最初に購入した種芋に時間が経過してできた副産物ではないのか。権利は三人平等のはず。

 冷静なうちにやめようと、売れる芋だけ売り飛ばし、共同事業は空中分解。

 コンニャクゼリーが日本でヒット商品となった。その企業、勢いを駆ってアメリカに会社設立を計画。原料の芋はブラジルから調達したいという。やすい東南アジアの芋も、太平洋をわたって運んでいたのでは、運賃がかさんで引き合わない。勿論高い日本産は最初から蚊帳の外。

 日本には収量の多い、よい品種もあり、平坦な土地ならば、収穫には機械が使え、それは植付け面積拡大につながる、といい面ばかりを聞かされたが、一体引き取り価格はいくらか、に関心が集中した。

 1キロ、1ドル。それを聞いて気持は一度に萎えた。国内では、最低でも三ドルはかたい。面積を増やし忙しいだけが儲け、にもなりかねない。ことわった。

 その後、この製品で二人が喉につまらせ亡くなった。日本の世論は大層厳しい。企業の方ももたつきだした。結局アメリカ進出は立ち消えになったらしい。

 わずかな期間のはかない夢ではあったけれど、こんな話は大変たのしい。

 青々と育つあたり一面のコンニャク畑、その真ん中にポツンと立つのも悪くはない。