サンパウロからの小話10 利き手(A 鎌谷)

 「利き手」という言葉がある。「他方より多く使う傾向のある、左右いずれかの一方の手。右手の場合が多い」辞書にはそんな説明がある。

 意識して右手を使おうとした訳でもないのだが、気付いた時には右手を利き手としていた。その右手を子供の頃、変な好奇心が仇となって、親指と人差指の先端部を無くしてしまった。指先を使ってする細やかな作業は苦手である。それでも、そんなことではダメと思ったのか母親からソロバン塾へ通うようにといわれた。先の変形した親指と人差指を使ってあの小さな玉を弾くのは、余程上手くやらないと玉は正しく動かないし、指の正常な人と較べるとスピードが落ちる。とりわけ「ご破算で願いましては」とソロバンをヨーイドンの状態に戻すのにどうしてもワンテンポ遅れる。二本の指が正常なら簡単に出来る動作がやれない。繰返し、繰返し反復することで徐々に上達したが、初級クラスにいた時は、左程問題とならなかったことが、上級へあがるにつれ大きな障害になる。ソロバンの基本は早く正確に、だがその早くに限界が見えてきた。もうこれが限界と思ったのは3級の免許証をもらった時、2級、1級とまだその上があるがとてもそこまでは登り切れない。しかし、ここまで来られたことである種の自信がつきソロバンはそこで辞めた。

 50代初期、マッサージを覚え始めた。マッサージ師は医者のような検査はできない。頼りになるのは指先の軽やかな感触。どこが悪いか、どの程度悪いか、その診断ができないと治療は難しい。右手の指先の感度は鈍い。今回ばかりは利き手に頼れない。きゅうきょ左手の特訓を開始した。

 その一つ、左手で食事をしていた。或る時、誰かに見詰められている感じがしてキョロキョロすると、上座に先輩の顔があった。「なんでしょうか」と訊ねると「御飯を左手で食べるとは、貴方の親御さん余程躾に無関心だったと、呆れてみているのだ」と。理由を話し、難を逃れたが年が20も違うとその人達の子供の頃は、左手が利き手でも御飯は右手と厳しく言われたのだろう。年が違えば生活、習慣は変化していくものらしい。この先輩の前では大きな声で言えないが、二人いる子供の一人は左が利き手、勿論ご飯も左手である。

 私の時代にはご飯時の右手云々は思いもつかず、自由にさした結果である。何時だったか5歳年の違う人と話をしていて、会話にでてきた「内孫」とはなんだと聞かれ「自分の跡取りから生れた孫、普通同じ家に住むのでいう」そうか、こんな言葉も段々使わず死語になっていくのかとその時感じた同じ思いを、このごはんは右手、で感じ取った。

 ともあれ今回は絶対に1級まで登らないことには前に進めぬと左手の特訓は続いた。何年過ぎて満足行くまでになったのか記憶は漠然としているが、今は治療の時、左手が「利き手」大威張りでがんばっている。