記憶をひもといて:小切手の怪

 集金整理の作業も残すはあと一軒、事務仕事の気を緩め、最後のシェッキ(小切手)を袋の中に探してハッとした。

 あるべきはずのシェッキが見つからなかった。そんなはずはない。特にあのシェッキは必ずあるはずだと良く探してみたがどこかに消えていた。

 それは最初に訪れたレストランのもので、金額を記入しながらドーナ(女性店主)との会話が浮かんで来た。

 「シェッキはノミナード(記名)にする?」、「いや大丈夫、今まで無くしたことはないから」

 男性のような元気の良い大きなサインをチラリと見ながら二つ折りにして袋に入れた。十日先付の日にちが記入されていた。

 次に目指した店もレストラン、支払いは間違いないので何時も食事をし、帰り際に代金をもらっていた。今日の集金店数は随分多いので要領よく廻らないと廻りきれないなという危惧があったので、ちょっと道端に立ち止まり請求伝票を選び出し、胸のポケットに入れた。時間にして三十秒弱。風は少なく陽の光がサンサンと降り注ぐ、そんな街の中でのなにげない動作、何回も繰り返し特別に目立ったヘマもやりようがなかった。今思い出しても鮮明に思い浮かべられる一連の動作の中に、あのシェッキを無くすという可能性があっただろうか?袋の中から伝票を取り出した時、シェッキが一緒にくっついて出、足元に落ちたのでは?否、そんなことはあり得ないし、二つ折りのあの大きさ、目に触れることなく落ちるなんて考えられないと確信を持って肯定してみても、現実には消えてしまったシェッキを探して、記憶にさからい納めてもいないカバン、財布、ズボンのポケット全てを探して絶望だけが現実のものになった。

 個人で支払うには金額が少し多かった。事情を話して無効にしてもらうしかない。夜の営業時間まであと二?三時間、帰宅してから電話をするとして今、この段階では会計に事情を話し、暫く待ってもらうことだけ。

 その夜、電話に出た息子さんに訳を話し、翌日、心付の品を用意してドーナに会った。

 「あの件銀行の方はOK。後で盗難届けを警察に行ってもらって来て頂戴ね。銀行には必要なんだって。これは同額の別のシェッキ、今度は無くさないでね」日付は同じく先付けだった。

 その足で警察に行った。若い警官が暇そうにボンヤリと坐っていた。待たされずに簡単に終りそうだなと一瞬考え切り出した。ところが口から出た言葉は「盗まれて」でなく「紛失して」で、本当のことだったがこれがいけなかった。

 「シェッキを無くしたんだろう」「ええ」「そうなんだろう!それなら銀行に行ってそういえばいい」「銀行が欲しいのは盗難届けの証明書だけど何か証明書作って貰えまいか、お願いします」

 「いやだね」

 「警察にはちゃんとした用紙があって、そこに簡単に記入するだけと聞いているし、銀行にしても警察署のハンコが要るだけなんだから・・・」

 「俺がどうして銀行員のマンダ(指図)で仕事をしなければならないんだ。これは犯罪ではないんだから警察の仕事ではないんだ。帰った方がいいよ」

 「確かにそうなるけれど、ブラジルの一市民が警察の助けが要るからとこうやって頼んでいるのだし、あんたにはその願いを叶えてくれる力を持っている、お願いするよ」

 「俺に仕事をマンダ出来るのはシェッフェ(上司)だけだ」

 残念ながらこんな相手をまるめ込む語学の力は私にはなく、結局別の警察署で嘘を言い盗難届けをもらい一件落着。

 十日後会計に呼び出された。「これどういうこと?」

 そこには問題のシェッキが二枚あった。探しても探しても無い訳が始めてその時氷解し、今度は別のことがもっと心配になった。

 あの日帰社後、私は件の集金に関しては、簡単とは言え報告書を作成した。店の名前と売掛金、集金番号とシェッキの金額を記入し、会計が見て全額受領出来たのか、残金がまだあるのかが分る仕組みになっていた。それだけの項目を記入して渡しているのに、その記憶が全て消えていた。受領した会計も後程の私の紛失の件、話を聞いても調べもせずに話しだけ鵜呑みにした感があるが、それは他人の事。自分の頭の中で何があの時起ったのだろう?あの日集金した他の七店の報告書はチャンと記憶に残っているだけに余計不気味だった。

 私がもう少し年老いて認知症と診断されたら、少なくとも最初の兆候はこの時始まったんだと今でもこのシェッキ、証拠の品として大事に保管している。