記憶をひもといて:香り

 事の始まりはリンスの街。単身赴任で行った街の或る夜のこと。仕事を終え何時もより遅い夕食を済ませ、気が向いて少し大廻りをし、静かな古い住宅街を歩いていた。夜も九時を過ぎると人通りは無く、気楽な散歩となった。通りの中程まで来た時、少しきついが気持ちの良い香水の様な匂いが漂って来た。

  昔のたたずまい故、庭は無く家々の扉はしっかりと閉じられ、どこから流れて来るのか見当もつかない。かなうならじっとそこに立ち停っていたいような甘く、清々しい香り。少し歩いても香りは続き、その辺一帯の空気は同じように気持ちがいい。花か植物でもと立ち止まって捜したが何も発見出来ず仕方なく立ち去った。

 翌朝主任の方にその話をすると「ああ、それは夜に咲く花があって、その花の香りですよ」と。聞けばゾクリとするような花の名を知らされた。「ダーマ・ダ・ノイチ(月下美人)」名前からして並の花ではない。庭にはジャスミン等四種の香りを放つ木があるが、この花も是非自分の庭に植えたいとの思いを募らせたが、時はまだ働け働けの時代、草花に割ける時間の余裕は無く、私の行動範囲ではその花の栽培者は見つからず、時は過ぎた。

 退職後ゲート・ボールを始めた。会員の中に草花の好きな方がいて、花壇に四季折々の花が咲く中、全く花をつけようとしない植物があった。サボテンの一種なのか見掛けもパッとせず木は見劣りする。或る時名前を訊ねると、

 「あんた、これはダーマ・ダ・ノイチと云って一年に一度花をつける有名な花よ。知らんかった?」「えっ、これが!」

 遥か昔、リンスの街で香りだけが記憶に残る花。庭に植えようと捜していた花。木は若く、側芽をとるには小さ過ぎると云う。待つしかない。

 ある日花壇に行って驚いた。あの花が消えていた。

 従業員の不注意から、草刈機で一緒にチョンとやり捨てられてしまったらしい。

 実物を見たことで、近くの街で二軒同じ木を見つけ、おみやげを持ってもらいに行くつもりと、蘭好きの女性と話をしていたら、一鉢あげるよと、いとも簡単にもらい受けた。木は古く、すぐに花は咲きそうだった。

 芽が出、ふくれ、大きく育ち、夕顔のような白い、綺麗な花が咲いた。

 昼間は匂わない。夜に鼻をくっつけたがダメ。十時まで待ったが同じだった。知り合いは「真夜中を過ぎないと匂わないよ」翌年は我慢して起きていたが同じこと。リンスの花は特別だったのか。別の人の話では「そりゃあ明け方の三時頃でないと匂わないよ」

 ある会合で、酒の肴としてこの花とワカメとを三杯酢で合えた酢のものを出された。オクラやモロヘイヤのようにぬめりがあり、酒の肴としては変わっていて口に合った。夜十時に匂う苗を手に入れようとの考えが、ガクリと萎えて来た。「匂わなくとも食べられる!」

 仕方がない。この年になれば、色香より食い気の方が先かと諦めることにした。

(2009年11月28日)