記憶をひもといて:落し物

栗田の野うさぎ

 本人も知らない間に、ポケットからこぼれ落ちた百レアルのお札。拾って警備員に手渡す少年の姿。後日テレビで映像を見て気づき、無事本人に戻った。近頃では珍しく明るいニュースでした。

 あれ程若い青年でも、何らかのはずみで、大切な給料の一部を落としてしまったのですから、もう少しとおの立った大人が、日常使用する品を落としてしまうのは仕方のないことだがと自己弁解しながら、ずっと昔、我が身に起こった落し物の記憶が蘇って来ました。

 上司から一年間リンス、バストス(ブラジルの地方)を中心に養鶏家の巡回をやって欲しいと辞令をもらいました。期間を限定されていましたので、家族を引き連れて行ったのでは、子供達にとって転校は好ましくなかろうと、単身赴任することにしました。

 落ち着く先も決まり、仕事はフランゴより採卵鶏が多く、養鶏専業のバストスに対し、リンスは鶏と果樹の組み合わせが多く、地域の特色が出ていて興味深い仕事場となりました。主任さんから言われたのは、「仕事のやり方は貴方に任せるが、満遍なく養鶏家を巡回し、彼等の問題や悩みを聞いて、解決してあげて欲しい。土、日は休みなので何をされても構わないが、家族がサンパウロでは、帰聖されるのは自由。但し毎週帰りたいのならオニブス(ポルトガル語でバス)は普通車。二週間に一度ならレイト(寝台車)、貴方の好きな様にやって下さい」。離れて暮らすと、家族のことが普段より気になります。普通車で帰ることにしました。

 金曜の夜行でサンパウロへ。日曜の夜行でリンスへ逆戻り。何ヶ月か経過した或る木曜日、明日はサンパウロで会議があるので、今回はレイトでよろしいと往復の切符をもらいました。流石レイトは椅子がうんと倒れ、毛布まで着いていて、夜眠るのには快適です。背の倒れの少ない普通車に較べる’と、それはゆったりしたもので、これならぐっすりと眠れ、会議に臨めそうです。

 日曜の夜、レイトで帰れるなんて初めての事。ぐっすりと眠り、車が止まったので眼が覚めました。何時もなら着く前に起きています。バスを降りて驚いたことには、リンスは終着駅ではなく、バスはもう一つ先の街まで来てしまっていました。慌てましたが、もう仕方のないこと。リンス行きのオニブスを待ち、主任さんには遅れた事情を話し、さあ仕事開始と自動車に乗って眼鏡が無いのに気付きました。

 乗り付けぬレイトに乗ったため、リンスで下車出来なかっただけでなく、運転に欠かせぬ眼鏡をどこかで落としたらしいのです。可能性としてはあのレイト車の中。検眼して、新しい眼鏡を買ってなどと手間取っていたら、今日は仕事になりません.保管されていることを祈りながら車を飛ばしました。

 改めて眺めると、使い込んでかなり草臥れたケースに入ったあの眼鏡を出して来てくれました。

 あの頃は、ブラジルの良さがまだふんだんに日常生活の中に残っていて、今では懐かしい一コマでした。

 その眼鏡は、今でも現役ですし、一年間普通車の夜行で寝た体験は、初めて。訪日を果たした時、家内がブツブツ言った飛行機の座席、レイト程ではないにしても、私には十分すぎる程傾いて、睡眠を妨げるものではなく、思わぬところでリンス往復の経験が役立ちました。体験者のみの特典でしょうか。

(2008年9月12日)